主役交代の時が来た!

エゴが主役じゃないと気付いたら、アイデンティティの崩壊が起きます。

 

わたしは生きてなかったんだ:(;゙゚'ω゚'):

 

じゃあ誰が生きてんの?ってなりますが、生きてる張本人は思考では理解できません。

 

自分で自分を見ることはできません。

 

なので、思考とか、感情とか、ぜんぶ放ったらかしっつーか、自分とは関係のないものだと思って全然いいと思います。

 

現状を受け入れるのは大いに効果あると思います!

 

良い悪いを決めてるのはエゴ、ということは現状は良いも悪いもないということで、「完璧」なだけです。

 

エゴは何もすることがなくなったため、ただただ楽しむしかありません!

 

実際は自分以外の誰か(神やらソースやら大いなる存在やら)が勝手に動いてるだけで、それを自我は「生きてる」って思うだけです。

 

自然の法則なので、現状をどうこうしようってのは不自然です。

 

大いなる存在とか神とかそういうものは、不足なんてないですから、エゴな私たちは、とりあえずもう全て受け入れて、やるべきことをやってればいいと思います。

 

 

Spitzの砂漠の花の歌詞の、好きなフレーズです。

 

《考えてやるんじゃなくて自然に任せていける》

 

これが全てだと思います!

結局

なんも考えないで生きるのが一番だと思いました。

 

思考はこの人生の主役じゃないんですね。

 

考えても仕方ないんですよ。

 

自然に任せていけばいいと思います。

 

「わたしが生きるんじゃないの?」

 

そうです、わたしが生きるんです。

 

思考や感情が生きるんじゃないんです。

 

思考は、現状をどうこうする力はなく、過去から学ぶことしかできません。

 

実際、時間が流れているように感じますが、ほんとうは「今」しかありません。

 

過去はあります。未来もあります。概念的に存在します。

 

が、結局この人生で体験できるのは「今」だけなんですね。

 

過去体験したことは、常識的なことしか「今」生きません。

 

たとえば、電車に乗るときは事前に調べておいた方がいい、とか、好きな映画のジャンルはサスペンスだな、とか色々体験したことから知識得ますよね。

 

よく赤ちゃんの頃になった気で生きればいいとか言われますが、赤ちゃんは知識皆無なのでやめておいた方がいいです。

 

なんも余計なこと考えずに生きれば100点だと思います!

 

そうすると、自我ができることって、楽しむことしかないんですよ。

 

なんもすることがないんで…

 

生きるのってめんどくさいことばっかじゃんって思ってた私にとっては朗報です!!!!

 

楽しむといっても、、自然と楽しむしか無くなるというか、楽しもう、と意気込んでない感じです。うまく言えないけど…

 

傷ついた、とかイライラした、とかこれからも色々あると思うんですけど。

 

それ自体が間違ってるわけじゃなくて、間違ってるのは、傷ついたことをアイデンティティにすることなんです。

 

エゴは人生の主役になろうとします、それを阻止する(気づく)だけでいいと思います。

 

大いに傷ついて結構、イライラして結構、泣いて結構!∩^ω^∩

 

でも、それは(本来のわたし)とは、なんも関係ないものだと気付いておけば、いいと思います。

 

今に在る、とか、無駄に意識すると、返って生きづらくなるし、結局「今、今に在ろう、今今!」って、思考が言ってるんですよ笑。

 

そこに気づけば、ほんとうに、ブッダのいうとおり、「苦しみ」から解放されます。

 

「悟るということは、苦しみから解放されることだ」

 

って言ったんですね。

 

ぶっちゃけどっから悟ってるとかこれまた分かりやすいのが無いので、悟るもクソもないと思います。

 

悟るエゴ(自我)はいない!

 

じゃあとりあえず苦しみから解放されたいなーと思い始めて。

 

ながいのでまた次の記事に続きを書きます。

とりあえず書きまくる

 

夜中、手が止まらなくなったのでめちゃくちゃ長い文ができますた。

 

謎の考察です。

 

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私は何なの?

 

私は形を持たない?

 

なぜ人間に自我があるの?

 

人の意識は二つあるの?

 

神は私なの?

 

エゴって何であるの?

 

エゴはどこから生まれたの?

 

思考は、私じゃない。

 

◯◯(私の名前)というアイデンティティも、偽りだったんだね…。

 

◯◯って名前、つけてくれて嬉しかったけど、本当のわたしには名前ってあるのかなぁ?

 

エゴは自然の流れじゃないよね。

 

だって、美しくないもん。

 

怒ったり、鬱になったり、苦しむ人がいたり。良いことじゃない。

 

花や、木や、川、海、空、月、太陽、星、野生の動物(?)って、やっぱり…美しいっていうか。見惚れちゃうよね。

 

なんで?って考えると、やっぱ、エゴがない…。

 

本能しかないのかな?

 

きっと、自然の美しいものたちにも、生命は宿っている。

 

それぞれが、「生きよう」という気持ちだけを持っている。

 

太陽や月は、わたしたち人間のために、光を送っているのだろうか?

 

花は、わたしたち人間のために、美しい色をしているのだろうか?

 

答えはろんのもち、NO!

 

他の誰かのためではなく、自分の本能に従って、ありのままの姿でいるだけだよね。

 

むしろ…自分という意識は無いのかもしれない。

 

わたしと、他の花、と、いう認識もないんだ…。

 

あるのは生存本能だけ…。

 

神は、何を創りたいんだろうか?

 

てか、神って?わたしか?

 

わたしがいなかったら、世界を認識することはできない…。

るんるんカソパニ

 

 

このブログのタイトルを「るんるんカソパニ〜」にしますた

 

 

わたしはオッサンではありません

 

中身はだいぶオッサン年齢かもしれないですが………

 

「マジ卍」より、「るんるんカンパニー」に反応する18歳です(そもそもマジ卍の意味ってなんですか?^^;)

 

こんなんですが、よろしくお願いします(?)

エゴからの解放、真実の「今」

 

大いなる存在は、人間に脳を与え、人間は考える機能を身につけた。

 

すると、判断能力もついてきた。

 

そして、エゴが誕生した。(?)

 

これは、大いなる存在が作ったのか?

 

それとも、考える能力が自我を生み出したのか?

 

エゴは過去や未来という幻からエゴを作り出したい(確実なものにしたい)がために、時間という幻の概念を用いた(生まれた)。

 

ほんとうは、今しかないのに

 

わたしっていう、アイデンティティは目に見えないのに…

 

大いなる存在は、私たち人間を、大いなる存在の子供として見ているような気もする。

 

エゴに気づき本来の姿を自ら見つけろ、と、教えつけることもなく、ただ見守っているようなきもするが…

 

ここはなんとも言えない。

 

ただわたしは「今しかない」という真実に従い、今をしっかりと生きようと思う。

 

過去や未来、他人との分離を感じたら、すぐ「今に戻れ!」と自分に言う。

大いなる存在の入り口

今から書くのは個人的な意見なので鵜呑みにはしないでくださいm(__)m汗!

 

 

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わたしは頭で考えている人ではない!!

 

思考は思考。わたしではない!!

 

実際絵を描いたんですけど下手なんで画像を作りますた…

 

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こんな感じかなぁ?というただの予想です^^;

 

 

 

頭からくる欲求ではなく体の中から感じる欲求を感じる。

 

外はただの思考の反映(投影)。

 

本当のわたしはわたし(と思っている体)の内側にある。

 

 

 

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またまた作ってみますた。

 

ただのイメージですが。

 

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だから、なんというか。。

 

ふつうに目で見て判断すると、どうしても思考のレッテル貼りが始まります。

 

なので、レッテル貼りをするのをやめるということです。

 

そのためには、みぞおちらへんで、世界を(物事や、物質、いろんなもの)を見るイメージがいいかな、と思いました。

 

いちばんレッテル貼りをやめるべきなのは“自分”ですが。

 

なにかを見るときに、みぞおちを意識。

 

なにかを聞くときに、みぞおちを意識。

 

体の内側を意識すると、「今に在る」ことができるとエックハルトさんはおっしゃっていました。

 

なので、みぞおちを意識しながら、ほんとうに「見る」、「聞く」など、、できたらいいですなぁ。と、いうより、実践してみます。

 

 

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本当のわたし(大いなる存在)はまったき意識。

 

なのでもちろん形はない。

 

神とも言えるその意識は、目を作り、顔を作り…。

 

神(大いなる存在)の表現なのかもしれない。

 

神っていうと、ヒゲ生やしたオッサンをイメージしちゃいがちですけど、まったく形を持たない存在と思ってもらっていいです。(それは私たちなんですけど。とかいうとややこしくなるので一旦置いときます)

 

 

 

 

人間や花々、星、動物…

 

すべて神であり、神の一部。

 

(すべて大いなる存在であり、大いなる存在の一部)

 

(すべてわたしであり、わたしの一部)

 

わかりづらかったらスミマセン

 

次の記事に続きます。

エゴに気づく意識

いま、イライラしているのは本当のわたしではない。

 

わたしに見せかけたエゴだ。

 

エゴは本当のわたしではない。

 

わたしはイライラしていない。

 

わたしは「今」、在る。

 

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イライラして、「やばいな、エゴに囚われそう」って思ったら↑を読んでみてください^^(声に出しても良いですね!)

 

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今を生きる上で「たのしむ」とは?

 

今に意識を100%持ってくる、思考は止まっているハズ。(止まらんときもある、ただ、そのことに気づいている)

 

ものごとに楽しさがあるのではなく(見出すのではなく)「楽しさ」は自らの内側から湧き上がってくるものだと、エックハルトさんは言う。

 

知らんさんの「花を見て美しいと思うのは、己が美しさを持っているから」という言葉と、ほぼ同じだ。

 

「たのしい」って、ニコニコしながら感じるもの、だけではない。(無理して笑顔作っても辛いだけですよね)

 

100%“今”に没頭する。

 

本を読む手が止まらなくなるような…。

 

それに近い。

 

手帳に書いてるいまの時点でこのブログ意識していたので書きづらくなりました。笑

 

他人に見られる、と意識しすぎなためにいつも続かないんです。

 

が、書いてるのは本当のわたしではないとして、別に誰にどう思われようが良いとします。

 

次の記事に続きます。