2018.2.6.午前3時ごろ

 

わたしは以前一度、瞑想中に気持ちが良くなったことがある。

 

体の力がなくなり、ふわふわとした感じだった。

 

わたしは眠りにつくのが悪いので、6日の夜、以前の瞑想のように体の力を抜いてみようと思った。

 

頭の力まで抜ければ、眠れるだろうと思った。

 

スッと眠りにつけると思いきや、そうもいかず。

 

でも、頭より下…腕や足は、感覚がない感じになっていた。

 

呼吸だけに意識を向けた。

 

そのうち、エックハルトトールさんの言う通り、知らんさんの言う通り、「私」という人間がいない(本当の私ではない)のであれば、人間というカタチが存在するだけで、意識的に呼吸をしなくても良いのでは?と思い始めた。

 

なので、わたしは意識的に呼吸をすることをやめ、自然と体が“生きようとする”のを感じようとした。

 

自然に呼吸を行う(したがる)体を見つめ続けた。

 

しばらくすると、胸〜お腹あたりの空気の出入りの感覚がなくなったのがわかった。

 

内心めちゃくちゃビビった。

 

目を閉じようとするも、閉じれなかった。

 

「これは、悟ったのか?」と思ったけど、そう思ったらなんとなくダメな気がしたので、とりあえずこの感覚に身を委ねてみた。

 

呼吸をかすかに感じつつも…ほんとうに、かすかだった。

 

エアコンの音、空気の音しか聞こえず、だった。

 

覚醒?しているのか、と思う自我はあった。ので、「あぁ、自我って消えないんだ」と気づいた。

 

目覚めた、という感じはした。

 

よく言われる「愛」を感じたかと言われれば、わたしは別に感じなかったが、《私》という形ある(アイデンティティ)ものが無く、意識(?)空間全体であるというのはわかった。

 

まぁ、それでも自我はあるので…。

 

女とか、18歳とか、ここは私の住んでるマンション、とかの概念はもちろんその時でさえあったけれど、目に見えない、という感じだった。(目の前には部屋の天井が見えていたけど、自己の形あるアイデンティティが見えなかった)

 

意識を感じるだけで、意識が手にとって見えるわけでも無く、さわれるわけでもなく。

 

なので…

 

まぁ…一体、という感じはしました。

 

たぶん、瞑想の時と同様、こういうのは2回目だけど、微妙に気持ちが良く、穏やかに流される感じ(?)は、体験できてよかった。

 

真実を体験したかった。

 

真実であろうことを読んで思い込むのでは無く、ほんとうなのか、というのを知りたかったから。

 

ただ、この経験にこだわらないようにはしたいと思う。

 

本当のわたしは意識だと自ら言えるのは、すこし、嬉しい…。

 

が、だからといって、エゴが喜ぶことはなにもない。

 

気づけてよかった。それだけである。

 

白フクロウさんの言ってることも合っていた。

 

人生の流れには、“今”に意識があることで、乗れる。

 

たぶん、わたしが体験した時の意識は潜在意識かな?と思うが…

 

潜在意識は、“今”がすべてなので、自我である顕在意識も“今”を意識していれば、自然とインスピレーションのようなものを感じれるのではないかと思う。

 

人生は、肉体を持っている以上、「経験」だと思う。

 

自我は考え込む必要はなく、ただ今の目的(目の前のこと)に集中するだけでいいのでは、と思う。

 

人間のわたしは自然の流れの中で“生かされている”のであって、“生きている”のは意識である。

 

自我は幻だから、生きているのではない。

 

生命の維持は最低限、体がしてくれている。

 

自然の流れに乗りながら、体験するすべてのことを、宇宙の視点から眺め、楽しむことが、人間のわたしのすべきことなんだ。

 

自我それぞれに世界があり、創造主であり、楽しんでいるんだ。