わたしは、衝動的になにかを書き出す時があって、いつもそれを手帳に書き出すのですが

 

それをこのはてなブログに書けそうなところだけをピックアップして載せようと思い始めた次第です

 

文もめちゃくちゃだと思います

 

意味不明かもしれないし、衝動的に書いてるので受け取りかたによってはやはり理解不能だと思いますので

 

もし読む方がいたら、言いたいのですが

 

まじめに読まないでください(笑)

 

まじめに読むとしたら、エックハルトトールさんの本を読んでください。

 

わたしは、他人、そして、世界だと思って、今を生きています。

 

そして、他人はわたしですから、この文は、自分に向けて書いてるようなものなんです…

 

まぁ、書きたいときに現れる感じなんで、読む人がいるのか?はわかりませんが

 

そういうことなので、よろしくお願いします^^

 

(雑でスミマセン^^;)

 

エックハルトトールさんに出会って今をしっかりと生きるようになった。

 

今しかない。過去や未来は幻であるということはまぎれもない真実です。

 

今、今、今…

 

今は「在るだけ」なのでは?と思った。

 

今は続いているのではなく…

 

永遠の「今」がある…うまく言えんけど。

 

すべての外に今がある?みたいな。

 

過去も、今。未来も、今…(???)

 

とかなんとか…。

 

寝れないから考えてたら、お腹気持ち悪くなって。

 

うーー、ギュル…

 

痛くなって。お腹ゴニョゴニョする感じ。

 

好転反応か?なぁんて思ってると体全体熱くなってきて…

 

窓開けるのにも命がけな状態…

 

さむいし。

 

うぅ…換気はもういいわ…

 

お茶飲んでもすっきりしない。

 

何かお腹に入れたいーーーー。

 

んで、プリンと今川焼き食べたらすこし落ち着きますた。

 

寝れそうにない…

 

ニューアース読もう…

 

思ったのは「今」をものすごい…

 

100%集中して生きるようになったので(約2日目)

 

すげぇーーエネルギーを使っていたのでは?

 

とかなんとか。

 

知らんけど、めちゃ飢餓状態みたいなカンジになったんで、生きるエネルギーが消耗されてた?のかな?て思いますた。

 

もうわたしの時間軸に未来はありませんので、ダイエットのダの字もありまてん。

 

なので《この時間に甘いもん食べて罪悪感》は一切合切ないのです(^-^)v

 

はぁ…だいぶ体力使ってます(生きるのに)

 

でも、“今”が今まででイチバンちゃんと生命らしく“生きてる”感じします。

2018.2.6.午前3時ごろ

 

わたしは以前一度、瞑想中に気持ちが良くなったことがある。

 

体の力がなくなり、ふわふわとした感じだった。

 

わたしは眠りにつくのが悪いので、6日の夜、以前の瞑想のように体の力を抜いてみようと思った。

 

頭の力まで抜ければ、眠れるだろうと思った。

 

スッと眠りにつけると思いきや、そうもいかず。

 

でも、頭より下…腕や足は、感覚がない感じになっていた。

 

呼吸だけに意識を向けた。

 

そのうち、エックハルトトールさんの言う通り、知らんさんの言う通り、「私」という人間がいない(本当の私ではない)のであれば、人間というカタチが存在するだけで、意識的に呼吸をしなくても良いのでは?と思い始めた。

 

なので、わたしは意識的に呼吸をすることをやめ、自然と体が“生きようとする”のを感じようとした。

 

自然に呼吸を行う(したがる)体を見つめ続けた。

 

しばらくすると、胸〜お腹あたりの空気の出入りの感覚がなくなったのがわかった。

 

内心めちゃくちゃビビった。

 

目を閉じようとするも、閉じれなかった。

 

「これは、悟ったのか?」と思ったけど、そう思ったらなんとなくダメな気がしたので、とりあえずこの感覚に身を委ねてみた。

 

呼吸をかすかに感じつつも…ほんとうに、かすかだった。

 

エアコンの音、空気の音しか聞こえず、だった。

 

覚醒?しているのか、と思う自我はあった。ので、「あぁ、自我って消えないんだ」と気づいた。

 

目覚めた、という感じはした。

 

よく言われる「愛」を感じたかと言われれば、わたしは別に感じなかったが、《私》という形ある(アイデンティティ)ものが無く、意識(?)空間全体であるというのはわかった。

 

まぁ、それでも自我はあるので…。

 

女とか、18歳とか、ここは私の住んでるマンション、とかの概念はもちろんその時でさえあったけれど、目に見えない、という感じだった。(目の前には部屋の天井が見えていたけど、自己の形あるアイデンティティが見えなかった)

 

意識を感じるだけで、意識が手にとって見えるわけでも無く、さわれるわけでもなく。

 

なので…

 

まぁ…一体、という感じはしました。

 

たぶん、瞑想の時と同様、こういうのは2回目だけど、微妙に気持ちが良く、穏やかに流される感じ(?)は、体験できてよかった。

 

真実を体験したかった。

 

真実であろうことを読んで思い込むのでは無く、ほんとうなのか、というのを知りたかったから。

 

ただ、この経験にこだわらないようにはしたいと思う。

 

本当のわたしは意識だと自ら言えるのは、すこし、嬉しい…。

 

が、だからといって、エゴが喜ぶことはなにもない。

 

気づけてよかった。それだけである。

 

白フクロウさんの言ってることも合っていた。

 

人生の流れには、“今”に意識があることで、乗れる。

 

たぶん、わたしが体験した時の意識は潜在意識かな?と思うが…

 

潜在意識は、“今”がすべてなので、自我である顕在意識も“今”を意識していれば、自然とインスピレーションのようなものを感じれるのではないかと思う。

 

人生は、肉体を持っている以上、「経験」だと思う。

 

自我は考え込む必要はなく、ただ今の目的(目の前のこと)に集中するだけでいいのでは、と思う。

 

人間のわたしは自然の流れの中で“生かされている”のであって、“生きている”のは意識である。

 

自我は幻だから、生きているのではない。

 

生命の維持は最低限、体がしてくれている。

 

自然の流れに乗りながら、体験するすべてのことを、宇宙の視点から眺め、楽しむことが、人間のわたしのすべきことなんだ。

 

自我それぞれに世界があり、創造主であり、楽しんでいるんだ。